更新日:2020年12月24日
『鉄山の開発に関わった人びと』
1.幕末から明治期・地元の人々
石井長一郎・石井忠左衛門・永井市右衛門・権左衛門・永井長作・佐藤弁次郎・武吉・周次郎・善八・芳太郎・市太郎・里見治平・里見吉十郎・斎藤国八・佐藤庄一郎・佐藤覚次郎・永井藤吉・永井常吉・石井熊次郎・永井恭介・桜井弥五平・永井湊太郎
2.鉄山の開発に関わった人びと(明治以前)
金蔵・峯蔵・勇蔵・岩城治兵衛・大島高任・竹下清右衛門・熊田嘉門・武田斐三郎・山崎大之進
■金蔵:鉄山の発見者となっている。飛騨の炭焼職、炭工、焼炭夫、金堀業などさまざまな呼び名がある。発見の時期は嘉永年間(1848~1853)とするものが多いが弘化と書かれたものもある。
■大島高任(大島総左衛門):安政2年(1855)徳川斉昭、藤田東湖らの提案で、水戸藩は反射炉建設を企画し南部藩士大島高任、薩摩藩士竹下清右衛門、三春藩士熊田嘉門らを招き、彼らの技術指導で那珂湊の反射炉を完成させた。●安政2年1月、上州小坂村産の鉄鉱石を鑑定し、「磁石用鉄鉱石に間違いない。磁石用鉄鉱石は品質が上等でこれより造る鋳鉄は最も純粋で大砲鋳造に最適である。スウェーデン、ノルウェー、ロシアなどが造るこの鉄は世界で最も良い」と激賞した。その後大島は南部藩に帰って、大橋や橋野地区に高炉を建設し日本で初めての高炉製鉄を成功させた。明治8(1875)年4月5日、鉱山権頭大島高任は、お雇い鉱山製鉄師「ビヤンシー」及び付属官吏を伴って中小坂鉄山を検閲した。
■竹下清衛門:安政3(1856)年8月、藩命により熊田と中小坂鉄山を調査、その鉄鉱石を製錬する場合、中小坂鉄山の山元に高炉を建設するのと水戸領内に建設するのと、いずれがコストの面で有利か、鉱石輸送運賃、木炭・石炭の価格、人夫賃などの比較検討を行った。
■武田斐三郎:元治元年(1864)小栗上野介らの計画した中小坂鉄山の磁鉄鉱による高炉建設築造計画のため、中小坂鉄山の現地調査を行った。
■山崎大之進:文久2年(1862)金久保山を点検して初めて鉱物を発見した。慶応元年(1865)幕府の役人(大小砲鋳立掛・大砲差図役)として武田斐三郎らと溶鉱炉建設の下見に派遣される。8月2日から24日までの間の視察は、鉄山・溶鉱炉築立場・鉄山道・砥山・石炭採掘場所(高崎藩領乗附)・そのほかの道筋・川筋で見分けし、中嶋河岸・倉賀野河岸まで足を伸ばした。
3.鉄山に関わった人びと(明治期)
内藤建十郎・野村誠一郎・稲垣静雄・坪内半助・鵜飼五郎兵衛・竹林市右衛門・小島市助・繁沢庄兵衛・酒井謙次郎・矢野正恭・松本文吉佐々木順治・小川武雄・丹羽正庸・秋元光愛・三条実美・伊藤博文・山尾庸三・由利公正・三浦安・丹羽維孝・原田宗助・伊藤彌二郎・坂本弥八・小沢武雄・小倉秀元・山崎武平・大和商会・林謙吉郎・白石元次郎
■内藤建十郎:明治3年3月(1870)鉄山開拓願を小幡藩に願い出た。小幡藩を経由し、民部省から許可された。
■野村誠一郎:内藤建十郎から中小坂鉄山を譲り受け、坪内反米・稲垣静雄らと経営にあたった。
■矢野正恭:明治5年11月「御管内鉄山開拓願」を坪内半助・松本文吉・佐々木順治らと群馬県御出張所に提出。明治6年2月22日、東京府より許可された。鵜飼・竹林らの申請許可と重なってしまい、工部省に伺いを立て、群馬県が仲裁役となり示談が成立し、合併した。坑業の権利は丹羽正庸に譲渡した。
■丹羽正庸:明治6年12月、小坂鉄山の経営に着手、英国人ガールを工師として雇い、旧炉を廃して蒸気機関による熱風送風を利用した溶鉱炉を建設した。さらに英国人ウォートルスを雇い工事を完成させ、明治8年にはスウェーデン人ベルギレンを雇い鉱炉の長とした。明治9年7月、経営を東京府の由利公正、三浦安に譲った。
■由利公正:明治7年、丹羽正庸が中小坂鉄山の経営に乗り出すとき、由利・三浦も関係していると考えられる。明治9年、丹羽の借金10万円を由利・三浦が引き継いでいる。
■伊藤博文:官営以前の中小坂鉄山の書類では工部省卿伊藤博文宛のものが多い。
■丹羽維孝:明治11年6月26日、中小坂鉱山を借区人より領収して「中小坂分局」を置かれ、分局の主任となる。
■坂本弥八:東京府商人、信濃国佐久郡大日向鉱山借区鉱業人で、廃業となった官営中小坂鉄山の払い下げを受ける。その価格は鉱山所蔵物件費25,000円、重要物品代3,575円
■小沢武雄:明治26年(1893)から中小坂鉄山経営を引き継ぐ。上野鉄道(現上信電鉄)初代社長。
■林謙吉郎:明治39年(1906)鉄山の経営を引き継ぎ、名称を「中小坂製鉄所」に改めて製鉄業務を再開する。
■白石元次郎:明治43年(1910)日本鋼管会社を設立し、社長となる。
4.試掘・採掘等の諸届出先の人びと
松平摂津守・松平玄蕃頭・木村甲斐守・矢野記内・小島権大属・伊藤小舟・加藤祖一・堀小四郎・井上如水・津田要・根本公直・市川真英・河瀬秀治・楫取素彦(群馬県最初の県令)・安藤省三
5.鉄山の経営に関わった人びと(昭和期)
園部寅五郎・園部丈太郎・丸芳葆・カネヤス鉱産(株)
6.歴史上有名な人びと
新島襄・野呂景義・今泉嘉一郎
■新島襄:同志社大学創設者で安中藩邸で生まれる。岩倉全権使節団の通訳兼案内人として渡欧、ヨーロパ格国の教育事情を視察する。帰国直後に中小坂鉄山を訪れている。その理由は岩倉使節団の中に由利公正・大島高任いたこと、小栗上野介に見られるように欧米の文明の基礎となった鉄生産の期待からなどが推測される。
■野呂景義:「近代日本の鉄鉱の父・日本鉄鋼協会の生みの母」と言われており、明治25年(1892)、中小坂製鉄所の高炉を調査し、高さ32尺、炉床径3尺3寸、炉腹7尺とした。
■今泉嘉一郎:官営八幡製鉄所製鋼部長・日本鋼管創始者の一人。大正12年(1923)中小坂鉄山に日本鋼管(株)が採掘権設定。中小坂鉄山には昭和16年(1941)に訪れ、経営にあたっていた園部家に「工学博士 今泉嘉一郎 日本鋼管株式会社」の名刺が残る。
7.中小坂鉄山と外国人
ガール・ウォートルス・ベルギレン・プレグラン・ビヤンキー・レーデブーア
■ガールまたはガワ-:明治6年(1873)12月、丹羽正庸に招聘され中小坂鉄山の工師となり蒸気機関設置、溶鉱炉の改築にあたった。
■ウォートルス:Joseph Waters 英国人鉱山技師
明治7年(1874)8月、丹羽正庸に招聘され中小坂鉄山の建設工事に従事。前任のガールが行っていた蒸気機関の設置、溶鉱炉の改築を指導監督し、完成にこぎつけた。中小坂鉄山では大男「オードロス」と呼ばれ、日本人との交流も語られている。『近代群馬の行政と思想その三』
(一倉喜好著)P112「沿革」は次のように記してある。
「英吉利 ショセフハルクーウォートルス、(職名)鉱山副師長、(給料)415円、(傭入年月)6年8月、(解傭年月)7年8月、(任所)本局」
また、東京大学生産技術研究所ホームページに『ウォートルス三兄弟の研究:ニュージーランドと米国コロラド州における活動を中心に』と言う論文が掲載されていた。
そこには「明治政府のお雇い外国人ウォートルス兄弟(The Waters Brothers)の離日後の足跡を明らかにする.彼らはアイルランドに生まれ,イギリスとドイツで教育を受け,アジア(香港,上海,日本),ニュージーランド,米国と拠点を転々とさせながら,各地で指導的な技術者として建築,土木,鉱山,電気,機械などの諸分野で活躍した.彼らの生涯を通して,19世紀後半に世界のフロンティアで活動した冒険技術者たちの実像に迫る」と掲載されていた。
■ベルギレン:Adolf.R.Berggrenn スウェーデン人鉱山技師
明治8年(1875)12月、丹羽正庸に招聘され中小坂鉄山の溶鉱炉職頭として勤務。明治9年7月、経営が丹羽から由利公正・三浦安に替ってからも雇用は続けられた。鉱炉はベルギレンの指導により順調にすすみ「その銑質良好にしてスウェーデン産に均しく、支那地方より需要があり、それに加えてガス管や水道管等を製造した」と、好結果を得ている。中小坂鉄山では小男「コドロス」と呼ばれ、親しまれていた。
大男の【オードロス】・小男の【コドロス】
中小坂鉄山近くに住む永井定一さんの話:祖父・祖母が中小坂鉄山で働いており、鉄山で造られた明治13年の鉄瓶が残っていた。
「私の祖父は永井丑五郎、祖母はこうと言いました。丑五郎は中小坂鉄山で働き、溶鉱炉の器械のしごとと言っていました。祖母は職員の食事や身の回りの世話をしていました。鉄山には二人の外国人がいました。二人は体格が違っていました。大男と小男なので、大男の方は『オードロス』と呼ばれ、小男の方は『コドロス』と呼ばれていたそうです。二人は少し日本語が喋れるようでした。子供が生まれたとき「おめでとう!可愛い子ですね!」と言われたそうです。
永井さんの家に残っていた鉄瓶には「明治十三年五月鋳造」と「鑛山分局常用」とあり、官営時代に造られ、使われていたことを示す重要なものです。(現在、下仁田町歴史館で展示中)
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鉱山分局で使われていた鉄瓶 |
鑛山分局常用の鋳出し |
明治十三年五月鋳造の鋳出し |
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