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下仁田町

「こんにゃく」について

更新日:2022年4月13日  本文のみ印刷

「こんにゃく」について

  こんにゃく芋は、もともと東南アジア、アフリカなどの熱帯性の植物で日本原産ではありません。縄文時代に日本に伝えられたとされており、鎌倉時代には医薬品の一種として使用されていました。これが一般家庭に普及したのは江戸時代に入ってからで、それまでこんにゃくは高級食品として僧侶や貴族たちの間でしか普及しておらず、日常の一般家庭では食べられるものではありませんでした。江戸時代に入って大衆文化の発達と共に、こんにゃくも一般家庭の食膳に乗るようになりました。 
  
  ★こんにゃくの栽培は、デリケートで難しいとされています。
直射日光をきらい、日差しが強くないところが良いが気温が低いと病気になります。
 また、雨量が多いところが良いのですが、水はけが悪いと病気になったり腐ったりします。 

下仁田町のこんにゃくの歴史

 群馬県にこんにゃくが持ち込まれたのは室町時代で、紀州(今の和歌山県)から移入してきたのが始まりと言われています。江戸時代の中期にはこんにゃくの精粉加工が発明され、明治に入ってからは茨城県の切干加工※を導入し、麦つき用水車を改良して荒粉から精粉を始めました。それを期に、水利を得た下仁田の精粉加工業が工夫と研究を取り入れながら次々と増え、それにより販売も容易になりました。また、需要の増大に伴って栽培量も増えたことから下仁田町周辺にこんにゃく栽培が広められてきました。
  ※イモを薄く切って乾燥した芋チップ(荒粉)を作成し、それを保存しておいて、使うときに精粉(原料)にしてこんにゃくをつくる方法。

 現在は、天日による切干が無くなり主に大型機械を用いた火力乾燥機で荒粉を作成し、製粉(グルコマンナンを取り出す)も機械で行っております。


 こんにゃく5こんにゃく4.jpg

下仁田町でこんにゃくが有名になったわけ

 下仁田町でこんにゃくが有名になった理由として、こんにゃくの原料の値段が下仁田町で決められていた{長年日本経済新聞にこんにゃく粉相場(下仁田渡し)として掲載されていた。}ことが「下仁田町こんにゃく」をブランド化させた理由です。

その他にも、こんにゃくが盛んに栽培されたことも、下仁田町でこんにゃくが有名になった理由です。
こんにゃくが盛んに栽培された理由については、下仁田町の風土が強く関係していると考えられます。

【その1】
こんにゃくは極端に寒いところや、強い日差しを嫌います。
(極端に寒くもなく、山間地で日照時間が短い下仁田にはピッタリ) 

【その2】
こんにゃくは排水の良いところを好みます。
(土地は酸性で保水性・通気性・排水性を要し、畑は山の斜面なので水はけが良い下仁田にはピッタリ) 

【その3】
こんにゃくは天災に弱い
(からっ風も平坦地より穏やかで台風などの水害も少ない下仁田にはピッタリ) 

【その4】
水車小屋で精紛する
(河川の幅が狭く流れが速いため水車が良く回る下仁田にはピッタリ) 

これらの理由から下仁田町の風土がこんにゃくを栽培するうえで適していたため、こんにゃくが盛んに栽培され有名となったと考えられます。また昔から水田が少ないことが悩みだった下仁田町にとって、商品価値の高いこんにゃくに力をいれていたことも理由のひとつとなったと考えられます。
 
こんにゃくB2.jpg

下仁田町のこんにゃく精粉加工量は日本1位!

 日本で栽培されるこんにゃく芋の約95%が群馬県産で、その内の約50%が下仁田町で集荷されており、製粉加工は日本一です!
「品質の良さと製粉加工の下仁田こんにゃく」と言われている下仁田こんにゃく。下仁田町ではこんにゃく手作り体験もおこなっております。
ぜひ、下仁田町にお越しの際はこんにゃく手作りを体験してみてはいかがでしょうか?

sukiyaki.jpgこんにゃくA  
 
 

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農林課
郵便番号:370-2601
所在地:下仁田町大字下仁田682
電話番号:0274-82-2111(代表)ダイヤルインはこちら
ファクス番号:0274-82-5766

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